山田雅人『かたりの世界』鑑賞記
2019年10月23日僕は再びこちらを訪れた。
その10階にあるボールルームにて、山田雅人『かたりの世界』を見てきたのだった。
『かたりの世界』は今から10年前の2009年に山田が最も得意とする「架空競馬実況」を聞いた放送作家の高田文夫に競馬だけでなく他の人を取り上げて作品を作れと言われたことがきっかけだった。
そして作品を作る際にその人物および関係者を取材を行い最初に完成した作品が『長嶋茂雄物語』だった。それをマイク一本で何も見ずに山田が語り尽くす形で日本全国各地で行われており、これまでに披露した作品は120本にものぼる。
しかし山田の出身地である大阪ではなかなか行われる機会が無く、2018年4月にABCラジオ『ドッキリ
ハッキリ三代澤康司です』の火曜日パートナーになったのを機にその年の10月に初めて大阪で『かたりの世界』が行われたのだった。
僕はradikoプレミアムに加入しているため、全国のラジオ番組を聴くことができるのだ。それがきっかけでこの『ドッキリハッキリ三代澤康司です』を聴き続けていると、このことが開催されることを知り、沖縄でチケットを購入して、休みを取って大阪まで行ったわけである。
第一話『甲子園バックスクリーン3連発』
タイトルは事前に知らされていたので、僕はそれが起きた1985年4月に行われた対巨人戦でスタメン出場だった阪神のバース、掛布、岡田の当時3選手に取材を行いその当時の心境を含めて語っていくのかと予想をしていた。
しかしそれが覆されてしまった。1979年まで遡り、掛布が当時巨人の投手だった江川卓からプロ入り初となるホームランを放ったことから話しは始まった。
掛布は左打者だったのだが、それは千葉・習志野高校の野球部に在籍した父親からの指導によるものだったのだ。
紙礫(かみつぶて)をボール状にして掛布の父親が投げ、それが掛布がスイングしたバットの芯に当たるとパッと開く練習をしたり、食事の時は箸を左手で持っていたというエピソードを披露されていた。
掛布が阪神に入団した1973年当時の4番打者は田淵幸一だった。しかし、田淵は1979年に西武に移籍し阪神から去ってしまうことになる。その田淵から掛布に対して、四番打者はひと振りで試合を決める力をもつ、それはおまえならできると。
それから1985年になり、阪神はかの甲子園バックスクリーン3連発をはじめ快進撃を続けてセリーグ優勝を決め、日本シリーズの対戦相手は西武だった。
当初下馬評は西武が圧倒的に多かった。
しかし、ふたを開けると阪神が日本一になったのだった。
山田雅人の実況口調によるかたりは、観客達をどうなるんだろうと一瞬ドキドキさせてくれてさらに物語に引き込ませていくのだ。
第二話『松下幸之助物語』
休憩のあと第二話へ、言わずと知れたパナソニックの創業者の生い立ちから亡くなるまでの内容にした作品を披露された。
パナソニックの創業の地が大阪・福島だったことは僕は初めて知った。
内容に対して会場内はすすり泣く音があちこちから聞こえていたが僕もそのひとりで涙が出てきた。
2本とも山田雅人だからできたと感じさせる内容で
「作品は僕だけでなく、観客達も加わって初めてできるのです。」と話されたことにはまさにそうだなと感じた。